竹中直人さんは、若い頃にコメディアンとしてテレビで人気を集めました。
俳優で有名になる前の代表的な芸が「笑いながら怒る人」です。松田優作さん、丹波哲郎さんなど、俳優の特徴を強調したモノマネでも知られていました。
ただし、芸人として活動した後に演技を始めたわけではありません。多摩美術大学で自主映画を制作し、劇団青年座でも演技を学んでいます。映画と演技を志す一方、素人参加番組で披露した形態模写が先に注目され、コメディアンとして有名になったのです。
この記事では、竹中直人さんがお笑い番組へ出演した経緯、当時の芸風、俳優・映画監督として評価されるまでを時系列で紹介します。
竹中直人は若い頃お笑い芸人だった
竹中直人さんは若い頃、コメディアンとして活動していました。
現在のように俳優業が中心になる前は、バラエティー番組でモノマネや一人コントを披露しています。テレビ朝日の紹介でも、約40年前に有名になった当初はコメディアンだったと説明されています。
ただし、お笑いコンビに所属して漫才などをしていた芸人ではありません。俳優の形態模写、表情、声、身体の動きを使った一人芸で注目されたピンのコメディアンです。
そのため、竹中さんの経歴はざっくりと言うと以下です。
- 大学で映像制作を学ぶ
- 劇団で演技を学ぶ
- 素人参加のお笑い番組で注目される
- コメディアンと俳優を並行する
- 映画俳優・映画監督として評価される
という流れです。
竹中直人の若い頃から現在までの経歴
| 年 | 年齢の目安 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1956年 | 0歳 | 神奈川県横浜市に生まれる |
| 1970年代 | 10代後半~20代前半 | 多摩美術大学でグラフィックデザインを学び、映像演出研究会で8ミリ映画を制作 |
| 1977年 | 21歳 | 『ぎんざNOW!』の「素人コメディアン道場」で第18代チャンピオンになる |
| 1978年ごろ | 22歳ごろ | 劇団青年座で演劇活動を始める |
| 1983年 | 27歳 | 『ザ・テレビ演芸』の「飛び出せ!笑いのニュースター」でグランドチャンピオンになり、コメディアンとして広く知られる |
| 1984年 | 28歳 | ドラマや映画への出演が増える |
| 1985年 | 29歳 | 演劇ユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」に参加 |
| 1989年 | 33歳 | 周防正行監督の映画『ファンシイダンス』などで俳優として存在感を示す |
| 1991年 | 35歳 | 『無能の人』で映画監督デビュー。主演も務める |
| 1992年 | 36歳 | 『シコふんじゃった。』などの演技が高く評価される |
| 1994年 | 38歳 | 監督第2作『119』を発表 |
| 1995年 | 39歳 | 『EAST MEETS WEST』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞 |
| 1996年 | 40歳 | NHK大河ドラマ『秀吉』で主演。『Shall we ダンス?』でも最優秀助演男優賞を受賞 |
| 1997年 | 41歳 | 映画『東京日和』を監督 |
| 2000年代以降 | 40代以降 | 映画、ドラマ、舞台、声優、音楽、映画監督など幅広く活動 |
※年齢は誕生日との前後で1歳異なる場合があります。
映画を目指して多摩美術大学へ進学
竹中直人さんは、1956年3月20日生まれ。神奈川県横浜市出身です。
多摩美術大学美術学部デザイン科グラフィックデザイン専攻へ進み、映像演出研究会に所属しました。大学時代には、監督、脚本、出演を自分で担当する8ミリ映画を制作しています。
2005年のインタビューでは、大学時代に好きだったフォークデュオ「古井戸」の歌を題材に、監督・脚本を務めた『ポスターカラー』という8ミリ映画を撮ったことを明かしています。
つまり、芸能界へ入る前から目指していたのは映画の世界でした。絵やデザインだけでなく、映画を撮ることと演じることの両方に取り組んでいたのです。
『ぎんざNOW!』で素人コメディアン道場のチャンピオンに
竹中直人さんがお笑いで注目される最初の大きなきっかけは、TBSの若者向け番組『ぎんざNOW!』でした。
1977年、番組内の視聴者参加企画「素人コメディアン道場」に出演し、第18代チャンピオンになっています。当時は大学生でした。
ここで披露したのは、人物の声だけを似せる一般的なモノマネではなく、表情や動作を含めて特徴を再現する形態模写でした。
俳優への憧れから人物を細かく観察していたことが、モノマネという形で先に評価されたと考えると、その後の演技とのつながりが分かります。
「笑いながら怒る人」とはどんな芸?
竹中直人さんの若い頃を代表する芸が「笑いながら怒る人」です。
文字どおり、顔は笑っているのに口調や内容は怒っているという、矛盾した二つの感情を同時に表現します。似た形式には「笑いながら泣く人」などもありました。
この芸の面白さは、単に変な顔をすることではありません。声は怒っている、口元は笑っている、身体には力が入っているという複数の要素を同時に演じ分ける点にあります。
後年の竹中さんが、コミカルな役と不気味な役、温厚な人物と威圧的な人物を行き来できることを考えると、「笑いながら怒る人」には俳優としての表現力も表れていました。
松田優作や丹波哲郎など俳優のモノマネで人気に
竹中直人さんは、映画俳優のモノマネでも人気を集めました。
特に知られているのが、松田優作さんの形態模写です。『太陽にほえろ!』のジーパン刑事の殉職場面を誇張して演じるなど、声、顔つき、身体の動きをまとめて再現していました。
竹中さんは後年、松田優作さん本人がいる場でモノマネを披露した出来事も語っています。最初は松田さんに厳しい言葉をかけられたものの、その後、好意的な言葉を伝えられたというエピソードです。
ほかにも丹波哲郎さん、遠藤周作さん、五木ひろしさんなど、俳優や文化人、歌手を題材にした芸で知られました。
相手の特徴を大きく強調する芸風は、現在の「誇張モノマネ」にも通じます。ハリウッドザコシショウさんは、自身の誇張モノマネのルーツとして竹中さんを挙げています。
1983年にコメディアンとして全国的に知られる
1983年、竹中直人さんはテレビ朝日系『ザ・テレビ演芸』の新人発掘企画「飛び出せ!笑いのニュースター」に出場し、グランドチャンピオンになりました。
この番組をきっかけに、コメディアンとしてテレビ出演が増えます。同年、27歳で『徹子の部屋』へ初出演した際も、俳優より「モノマネをする人」として認識されていました。
人気が出ても「毎日泣いていた」理由
竹中直人さんは2024年の『徹子の部屋』で、コメディアンとして有名になった若い頃について「毎日泣いていた」と語っています。
大学時代から映画の世界を夢見ていた一方で、世間からはモノマネをするコメディアンとして見られるようになりました。テレビで人気が出たことと、自分が進みたい方向が完全には一致していなかったことが、当時の苦しさにつながったとみられます。
ただし、お笑いの経歴を遠回りだったと切り捨てることもできません。人を観察して特徴をつかみ、短時間で別人へ変わる技術は、その後の俳優活動にも生かされています。
芸人から俳優へ転身したわけではない
竹中直人さんは、コメディアンとして有名になる前から演技を学んでいました。
大学在学中の1978年には劇団青年座へ入り、演劇活動を開始。テレビで一人芸を披露する一方、舞台にも出演しています。
1985年には、大竹まことさん、きたろうさん、斉木しげるさん、いとうせいこうさん、宮沢章夫さんらと「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成しました。
このユニットは、演劇、コント、音楽などを組み合わせた舞台を展開しています。竹中さんにとって、お笑いと演技は別々の仕事ではなく、どちらも人物や感情を表現する活動でした。
俳優として評価された代表作
竹中直人さんは1980年代から映画やドラマへの出演を重ね、1990年代に俳優として高く評価されました。
『ファンシイダンス』
周防正行監督による1989年公開の映画です。岡野玲子さんの漫画を原作に、寺で修行する若者たちを描いています。
竹中さんは個性的な僧侶・北川光輝を演じました。強い存在感とコミカルな演技で、映画俳優としての印象を広げた作品の一つです。
『シコふんじゃった。』
1992年公開。大学の相撲部を舞台にした周防正行監督作品です。
竹中さんは、相撲部に長年在籍する青木富夫役を担当。この演技で『死んでもいい』とともに、第16回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しました。
『EAST MEETS WEST』
1995年公開の岡本喜八監督作品です。竹中さんはアメリカ西部へ渡った忍者・為次郎を演じ、第19回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しました。
『Shall we ダンス?』
1996年公開。竹中さんは社交ダンスに熱中する会社員・青木富夫を演じました。
普段の地味な会社員姿と、ダンス時の派手で自信に満ちた姿を演じ分け、第20回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しています。
大河ドラマ『秀吉』で俳優としての地位を確立
1996年、竹中直人さんはNHK大河ドラマ『秀吉』の主人公・豊臣秀吉役に起用されました。
大河ドラマの主演は、コメディアンとして竹中さんを知っていた視聴者にも、俳優としての力を広く印象づける転機になりました。
陽気で人を引きつける面だけでなく、天下人へ変わっていく人物の野心や怖さも表現。モノマネや一人芸で培った表情の豊かさと、舞台・映画で積んだ演技経験の両方が生かされています。
俳優だけでなく映画監督としても活動
竹中直人さんは、1991年の『無能の人』で映画監督デビューしました。つげ義春さんの漫画を原作とし、自ら主演も務めています。
同作は日本アカデミー賞で優秀監督賞などを受賞。竹中さんは、大学時代から続けてきた映画制作を商業映画で実現しました。
その後も、次のような作品を監督しています。
- 『119』(1994年)
- 『東京日和』(1997年)
- 『連弾』(2001年)
- 『サヨナラCOLOR』(2005年)
- 『自縄自縛の私』(2013年)
- 『ゾッキ』(2021年、山田孝之さん・齊藤工さんとの共同監督)
- 『零落』(2023年)
俳優として有名になってから監督を思いついたのではなく、大学時代から続けてきた映画制作が『無能の人』につながっています。
お笑いの経験は俳優業にどう生きている?
竹中直人さんのモノマネは、人物の目つき、声の間、首や肩の動かし方まで観察して、特徴を短時間で伝える芸でした。
この技術は俳優の仕事にも共通します。
- 表情を瞬時に変える
- 声色や話す速さで人物像を作る
- 普通の人物に少しだけ違和感を加える
- 笑いと怖さを同じ場面に共存させる
- 脇役でも短い登場時間で印象を残す
『Shall we ダンス?』の青木役のような強烈なコメディー演技だけでなく、権力者、芸術家、父親、悪役など幅広い役を演じられる背景には、若い頃からの観察と形態模写があります。
「笑いながら怒る人」も、相反する感情を同時に見せる演技です。芸人時代と俳優時代は切れているのではなく、表現方法を変えながらつながっています。
竹中直人は現在もモノマネをしている?
現在は俳優として紹介されることが多い竹中直人さんですが、トーク番組やイベントではモノマネを披露することがあります。
コメディアンを完全に引退して俳優だけになったのではなく、映画、ドラマ、舞台、監督、音楽、モノマネを並行してきた表現者と捉えるのが正確です。
まとめ
竹中直人さんは、若い頃にモノマネや一人芸を披露するコメディアンとして人気を集めました。
- 1977年に『ぎんざNOW!』の素人コメディアン道場でチャンピオン
- 1983年に『ザ・テレビ演芸』でグランドチャンピオン
- 「笑いながら怒る人」や松田優作さんなどの形態模写で注目された
- 芸人として有名になる前から、大学で自主映画を制作し、青年座で演技を学んでいた
- 1991年に『無能の人』で映画監督デビュー
- 『シコふんじゃった。』『Shall we ダンス?』などで俳優として受賞
- 1996年の大河ドラマ『秀吉』主演で俳優として広く認知された