テレビ朝日開局65周年記念ドラマ「終わりに見た街」をご覧になりましたか?
宮藤官九郎氏の脚本による本作品は、序盤のコメディタッチから中盤のシリアスな展開、そして衝撃的なラストシーンまで、多くの視聴者を魅了し、同時に困惑させました。
今回は、ドラマを既に観た方々に向けて、作品の深層に迫る徹底的な考察を展開します。
原作の内容を踏まえつつ、宮藤氏独自の解釈や新たな要素にも注目し、「終わりに見た街」が伝えようとするメッセージを探ります。
注意:これ以降はネタバレを含みます。まだご覧になっていない方はご注意ください。
謎解きと象徴的解釈
1. ドラマ化作品のテーマ
『終わりに見た街』は、山田太一氏の小説が原作で、これまでもドラマ化2回、ラジオドラマ化が1回されています。
そして今回の宮藤脚本版でも一貫して描かれているテーマは以下の通りです。
- 戦争の恐ろしさ
- 大きな流れに飲み込まれる個人の無力さ
- 戦争の残酷さ
これらのテーマは、原作の根幹をなす要素であり、各ドラマ化作品でも忠実に描かれてきました。
2. プロデューサーの存在
今回の作品で最も謎とされるのが、プロデューサーの存在です。
この人物は過去のドラマ化作品には登場せず、宮藤脚本版で初めて登場したキャラクターです。
プロデューサーの正体については様々な説が考えられますが、作中の主人公の台詞「警防団の男、翔子、兵士、全部同じやつがやってる。でもそんなの無理でしょ、芝居じゃないんだから」から、プロデューサーは何かの象徴を表していると考えるのが妥当です。
私の解釈では、このプロデューサーは日本のメディアの象徴だと考えます。
その根拠として、以下の場面が挙げられます。
現代の時間軸
- 終戦80周年記念ドラマの脚本を依頼
- 「極端に設定を振らないと数字が取れない」という発言
- 「大丈夫ですよ、80年前だよ。文句言う人死んでます」と戦争を軽視する態度
過去(タイムスリップ後)の時間軸
- 1回目
家の犬を射殺する将校として登場(弱者の声を消す象徴) - 2回目
隠れていた主人公を見つけながら「異常なし」と報告(事実の隠蔽) - 3回目、4回目
同じ顔の人物の正体にプロデューサーの顔と気づく
202X年の時間軸
- SNSで戦争の最中にワインを飲む様子を投稿(安全圏から他人事のように戦争を扱う現代メディアの姿勢)
これらの描写は、戦時中のプロパガンダから現代のメディアの問題点まで、一貫してメディアの在り方を批判的に描いていると解釈できます。
3. ラストシーンの若いお母さんと初恋の相手
物語の最後に登場する若いお母さんと初恋の相手も、何かの象徴を表していると考えられます。
- 若いお母さん
戦争で大切なものを失った人々の象徴 - 初恋の相手
戦争の大きな流れの中で犠牲になった人の象徴
この2人がプロデューサーのライブ映像が表示されたスマホを踏みつけて壊すシーンは、メディアへの報復や拒絶を表現していると解釈できます。
4. タイムスリップと歴史の不変性
物語の始まりと終わりに起こる爆発は、本作品独自の要素です。
これは、主人公たちの行動に関わらず、歴史は変えられないという不変性を示唆しています。
タイムスリップして過去を変えようとしても、結局はミサイルが落ちる結果は変わらなかったという設定は、「戦争は終わらない」というメッセージを強調してるのではないでしょうか。
宮藤官九郎氏のメッセージ
宮藤氏が本作品を通じて伝えようとしたメッセージは、「戦争は終わらない」というものだと考えられます。
太平洋戦争は終結しましたが、世界のどこかでは常に戦争が起きています。
現在の平和は一時的なものに過ぎず、平和を維持するためには継続的な努力が必要だという警告です。
さらに、メディアであるテレビのドラマ特番でこの脚本を発表した宮藤官九郎氏、そしてそれを65周年記念の特番ドラマとして放映したテレビ朝日の決断は、非常に意義深いものだと言えるでしょう。
まとめ
本作品は、視聴者に戦争や平和について深く考えさせることを目的としており、様々な解釈の可能性を秘めています。
この考察はあくまで一つの見方に過ぎません。
「こうなんじゃないか」「ああなんじゃないか」と考えることそのものが、この作品の目的の一つなのかもしれません。
皆さんも是非、自分なりの解釈を見出し、平和について考えるきっかけにしてみてはいかがでしょうか。